アイアンマン ★★★

 硬く硬く鍛え抜かれた鋼鉄のボディには銃はもちろん、爆弾も効かない。空だって音速で飛びまくり。そしてワル共の脳天に、唸りをあげてめり込む制裁の鉄拳。ズッギャーーン! そんな無敵の鋼鉄戦士が主人公の映画で、男が燃えないわけがない。世にはびこる卑劣に対する憎しみを、弱きを助ける優しさを、怠惰な自分に対する怒りを、みんなまとめてジェットの燃料にしてやろうか! 映画館を出たあと、少し小走りで駆け抜ける帰り道。そんな気分にしてくれる「アイアンマン」は、紛れもない真っ当なヒーロー映画だと思う。ただその真っ当さゆえの捻りのなさというのか、ドラマ展開の平板さは少々感じてしまった。


 「アイアンマン」の主人公トニー・スタークは、背負った罪にも、社会的な責任にも、自らの執行する正義にも、大した逡巡は持ち合わせていないように見える。自分が正しいと思ったことをやり、行きたいところに行き、殴りたい奴をぶん殴る。正にその真っ当なヒーロー気質ゆえにこちらのハートも燃え上がるのだが、その炎はどこか燻っている。「ダークナイト」で何度も容易く裏返ったあのコインのように、「アイアンマン」の正義もいつか裏返ってしまうのではないか? という不安が、自分の中で燻っている。


 例えばトニー・スタークの「俺もう、兵器作るのやめる」という急な宗旨替えによって、職を追われた男がいたとしたら。その男が家族を失い、「アイアンマン」への復讐を決意したとしたら。「ダークナイト」のトラウマというわけでもないだろうが、今はヒーロー映画を観ても、ヒーローの正義がぐらつく場面を期待してしまっている自分がいる。戦う道を選んだ男が、切り裂き傷つき屠り償い本当に血だるまとなって修羅の道へ堕ちていくような映画を望んでいる自分がいる。「アイアンマン」は実に爽快で楽しめる映画だが、同時に「自分の映画ではない」ということも強烈に感じた。


 拳で殴られる痛みが、殴った者の拳に返っていく。ヒーローですら、その法則からは逃れられない。「アイアンマン」に物足りない点があったとすれば、そういう部分かもしれない。