ええ詩

 なんとなく、「はぁ、ええ詩だなぁ」思ったものを張り付けていく試み。


川明り  井上靖


石の階段が水面に向って落ち込んでいた。
満潮の時は階段の半分が水に没し、干潮の時は小さい貝殻と藻をつけた最下段が水面に現れた。
ある夕方、そこで手を洗っている時、石鹸がふいに手から離れた。


石鹸は生きもののように尾鰭を振って水の中を泳ぎ、あっという間に深処に落ち込んで行って姿を消した。
あとには、もうどんなことがあっても再び手の中には戻らぬといった喪失感があった。


これは幼時の出来事だが、それ以後、私はこのように完全に物を喪ったことはない。
川明りがいかなる明るさとも違って、悲劇の終幕が持つ明るさであることを知ったのもこの時だ。